CAとしてニュージーランド移住。勇気を出してやりたい事を追求する大切さ

※この記事はせかいじゅうサロンの「海外在住者ピックアップ」企画で、紹介された内容です。

せかいじゅうサロンメンバーの皆さん、こんにちは。

ニュージーランド在住の中村文彦です。


私は今、2回目のニュージーランド移住で1回目が、1999年9月から2006年5月までの6年9か月間。その後、12年半弱の歳月を経て2018年10月から2度目のニュージーランド移住がスタートしました。


仕事は1回目がニュージーランドのナショナル・フラッグキャリアで国際線の客室乗務員を6年7か月、2度目の移住も同じ会社で国際線の客室乗務員を1年8か月やっていましたが、昨年7月にコロナ渦の影響で人員整理にあってしまい、一旦、退職。その後、中古車のグルーミング(洗車)の仕事を2か月半、日本食材の物流会社で倉庫作業員を約1年やっています。


航空業界はコロナ渦で大きなダメージを受けているから大胆なリストラも仕方ないですよね。

大好きだった客室乗務員の仕事を失った時は結構なショックを受けました。

だけど、いずれまた、コロナ以前のように自由に国外旅行が可能になればフライトアテンダントとして呼び戻してもらえる可能性はあるので、そうなったら、せかいじゅうサロンメンバーさんと世界各地でリアルに交流が持てたら良いなと思っています。

今は体力維持をする目的もあって肉体労働をして頑張っています。

毎日、20KG以上もある重い業務用の食材(お米、味噌、醤油、オイル他)や飲物(ビール、日本酒、ジュース等)、その他を数100個もパレットに積んでフォークリフトで倉庫に運んでいるので、筋力と体力は同年代の中ではかなり上の方だと自負しています。(笑)


※かなり長文です。ゴメンナサイ。後半の方に私がニュージーランドの永住権を取得する時の話を詳しく書いていますので、そちらに興味がある方は参考にしてみてください。

移住に至った経緯


私は高校2年生の1学期まで英語が苦手でどちらかと言えば嫌いな教科でした。

ところが2学期から英語担当の先生が産休で別の先生に代わり事態が大きく変化します。

新しい英語担当のI先生はアメリカのオレゴン州に留学経験が有り、留学時の面白い話を時々、授業中にしてくれました。

私はそれまで英語が嫌いで、授業中はおしゃべりばかりしていて全然まじめに勉強していなかったのですがI先生の留学エピソードがとても楽しくて、私も何時か留学してみたい。そのためには英語をもっと頑張ろうと気持ちを切り替えました。

I先生のおかげで英語の苦手意識も和らぎ、その年ロータリークラブがスポンサーの米国交換留学プログラムに応募しましたが残念ながら私は力不足で選ばれず、別の優秀な女性が選ばれました。


高校卒業後、東京都中野区にあるトラベルジャーナル旅行専門学校に進学します。

進学理由は将来ツアーコンダクターになって海外添乗をしながら世界中を旅して周りたいと思ったからです。

学校は2年制でしたが、私は1年生の時に日経新聞の新聞奨学生を1年間やり通して、その時貯めたお金をつかって翌年、オーストラリアのメルボルンに語学留学をします。


期間は10か月、最初の1か月は語学学校が手配して下さった牧師さんのお宅にホームステイ。

その方は日豪協会にも所属されている方でとても親日家。日本にも渡航経験があり、これまで、多くの日本人留学生のホストをされていたのでとても快適でした。

2か月目から残りの9か月間は6歳年上の韓国人男性Wさんと2人でフラットシェアをしました。

ホームステイは食事も作ってもらえて快適でしたが、その分、滞在費は多くなってしまうので、学校の掲示板で見つけたWさんのフラットメイト募集の案内から連絡を取り一緒に暮らす事になりました。

生活費を抑えるために食費や光熱費は折半。日曜日の朝に一緒にビクトリアマーケットという大きな朝市に出かけて肉や野菜などを一緒に買いました。

Wさんは社会人経験や軍隊経験もありとても頼りになる方で、お兄さんのような存在。

Wさんのおかげで外国人とフラットシェアする楽しさをたくさん経験出来ました。

1991年留学先・メルボルンの街中(走っている車に時代を感じますね。)

1991年留学先・メルボルンの街中
(走っている車に時代を感じますね。)

1991年エアーズロック旅行(私が初めて訪れた海外の世界遺産です。)

1991年エアーズロック旅行
(私が初めて訪れた海外の世界遺産です。)

 

1992年1月、私は約10か月間のメルボルン留学を終えて日本に帰国します。

メルボルン空港を出発する日、たくさんの友人が見送りに来てくれて凄く嬉しかったですが、実は飛行機が離陸すると機内で号泣してしまいました。(笑)

4月から専門学校の2年生に復帰するまでは、成人式に参加したり、昼は自動車の教習所、夜は居酒屋のアルバイトをして2か月半を過ごしました。

1992年4月から当時、杉並区にあったTEC: Tokyo English Centerと言う施設で一年間生活をします。

このTECですが、「日本語力を身に付けたい外国人と英語力を身に付けたい日本人が一緒の部屋で生活する」と言う面白い取り組みをしており、英語をもっと上手に話せるようになりたかった私は、アメリカ人、オーストラリア人、カナダ人、ニュージーランド人、インドネシア人、チェコ人らと1年間共同生活をし、翌年3月に専門学校を卒業します。

TECとトラベルジャーナル旅行専門学校時代にも沢山楽しかったエピソードはありますが長文になりすぎるので割愛しています。


私は念願の大手私鉄系の旅行業者に就職が決まり、配属先が実家から一番近くの千葉支店となりました。

私は英語が出来たので1年目からヨーロッパ2週間(ドイツ、オランダ、フランス、イギリス)の添乗に行かせてもらえ凄くラッキーでした。

他にも2年9か月間で辞めるまで、韓国3回、タイ1回、マレーシア1回、シンガポール1回、バリ島1回、サイパン1回、アメリカ西海岸2回(ロサンジェルス・サンフランシスコ)と同期が中高生の修学旅行で京都や広島等、国内旅行添乗ばかり行かされている中では最も多く海外添乗に行かせてもらえました。


やりたかった海外添乗員として世界中を旅するという目的の一部はこの時に達成できたのですが、添乗だけを専門にやっている職業ツアーコンダクターとは異なり、大手旅行会社の地方支店で営業員だった私の仕事は異なります。

主に企業や公官庁、その他団体、個人宅を訪問してパックツアーやホテル、交通手段を手配して販売。

時々、添乗で行く団体旅行で最も多いのが、職場の慰安旅行。

千葉の企業だと近場の伊豆や群馬にある温泉1泊2日旅行が定番で、夜に行われる大宴会では、カラオケの司会進行とか一緒に深夜まで飲まされて、翌朝は二日酔いだけど元気に5時半起床、6時には朝食会場の前に立って先輩が来るのを待ったり、早起きのお客様と雑談したり。。。

若さと体力があったから何とか持ちましたが、私が本当にやりたい仕事は①英語をもっと使う仕事、②外国人と関われる仕事、③世界中を旅して周れる仕事。

その気持ちを思い出し、又、年々、英語を使わなくなり、すっかり英語力が落ちてしまったので、もう一度、語学留学をする事を決意して会社を辞めました。

1996年1月からイギリスのロンドンに1年7か月、続いて1997年8月からニューキャッソルに1年4か月程、留学します。

1997年母校・ノーザンブリア大学

1997年母校・ノーザンブリア大学

 

1998年バレーボール部チームメイト(ドイツ人、フランス人、ギリシャ人とヨーロッパ人が多かったです。)

1998年バレーボール部チームメイト
(ドイツ人、フランス人、ギリシャ人とヨーロッパ人が多かったです。)

留学当初は学生ビザで9月まで滞在予定で、帰国後はヨーロッパを専門に周るツアーコンダクターになるつもりでいました。

しかしながら、9か月間の語学留学だけでは自分が納得するだけの英語力が身につかず、もう少し長期間語学力を磨こうと気持ちが変わります。又、ヨーロッパの航空会社には男性の客室乗務員、いわゆるスチュワードが数多く活躍する事を知り興味を持ち始めました。

ちなみに当時日本では日本航空、全日空、日本エアシステムの大手航空3社で合計1万人以上の客室乗務員が存在していたはずですが、そのほぼ100%近くが女性。

残念ながら日本で男性が客室乗務員になるには大手3社の総合職で入社して、客室乗務部に配属されない限り道はありませんでした。(※1998年にスカイマークエアラインズが新規に設立されるまでは。)

だから、当時は日本でフライトアテンダントを客室乗務員と言うよりスチュワーデスと呼ぶのが一般的で、女性の仕事と言う先入観が強かったんですよ。

その後、男女雇用機会均等法が改正されて特定の性別を意味する職業名がだんだん使われなくなり、看護婦→看護士。保母→保育士。スチュワーデス→CA/キャビンアテンダント又は客室乗務員と言われるようになりました。

ようやく男性でも客室乗務員を目指す人が増加し始めたのが2000年頃だと思います。

その年にスチュワーデスマガジンと言うCAを目指す人たちが愛読する月刊誌が、エアーステージと言う誌名に変更になったのが個人的に嬉しかったです。

さて、少し話が脱線しましたが、このスチュワーデスマガジンで日本人男性CA特集と言うのがあって、数は少ないですが北米やヨーロッパ、オセアニアの航空会社で活躍される日本人男性客室乗務員の先輩に強いあこがれを持つようになります。

そして、この仕事こそが私が仕事上、最もやりたい「(無料で)世界中を旅して周れる」事だと思いヨーロッパ旅行専門のツアーコンダクターになる事を諦めます。


そして、どうすれば男性客室乗務員になれるかを突き詰めて考え、出した結論が

①日本の航空会社は男性客室乗務員を採用しないからあきらめる。

②日本に就航している外国の航空会社で日本人男性を採用する会社に積極的にアプローチする。

③②の方法だとJAL,ANA,JASの現役CA(女性)も受験するので簡単には採用してもらえない、だから彼女達が受験しない海外の現地でCA採用している航空会社を狙う。

④③の方法だと、合法的に働くための就労ビザが必要になる。だけど、ジョブオファーをもらえないと、なかなか就労ビザは取得できない…。


どうしたら、これらの問題をクリアできるか?色々と調べていたらオセアニア系の航空会社で働く日本人CAの方々は現地の永住権(Residence Visa or permit)を持っている。ならば、私も永住権が取得できれば道が開けるのでは?と思いオーストラリアとニュージーランドの永住権について色々と調べました。

そして、その結果、私がもしイギリスで大学院の修士課程まで卒業出来ればニュージーランド(NZ)の永住権、ジェネラルカテゴリーで当時必要だった24ポイントに到達出来ると分かりました。

私の場合、日本で2年制の旅行専門学校を卒業(準学士/Associate degree相当)、約3年間旅行会社で働いた経験(職務経歴が希望する大学の専攻と関連している)が有ったので、ニューキャッソル(イギリス北東部の都市)にあるノーザンブリア大学で旅行経営学PGD: Post Graduate Diplomaコースに入学が許可され、更にPDGを経てMA: Master of Art/修士号課程進み、必死に卒論(英文:A4用紙で100枚程)を書き上げ1999年6月にノーザンブリア大学から旅行経営学でMAが授与されました。
※22年前(1999年)の話なので、現在とはNZの永住権取得に必要な条件は異なります。

1999年7月NZ永住権が許可される(予想より早く取れたのでビックリでした。)

1999年7月NZ永住権が許可される
(予想より早く取れたのでビックリでした。)

ちなみに、私が永住権を申請した1999年7月のジェネラルカテゴリーでの基準は、

①年齢ポイント:10点(25~29歳)

②学歴ポイント:12点(修士課程)

③職務経歴ポイント:1点(大学時の専攻と一致する仕事)

④移住資金:2点(20万NZドル)
※10万NZDで1点。この移住資金/settlement fundでポイントを得るには、NZ国内に銀行口座を開設して、実際に送金、その時の送金証明と残高証明書が必要になります。私は東京駅八重洲口にあったANZ(オーストラリア/ニュージーランド)銀行で現地口座を開設、両親に頼み込んで、まとまった金額の日本円を貸してもらいそれをニュージーランドの現地口座に送金して証明書を発行してもらいました。


1999年は今より日本円が強くて1NZD=60円前後だったので単純計算だと20万NZD=1,200万円ぐらいでした。

もちろん、両親から借りたお金は後で返金しましたが、2001年には1NZDが50円前後まで円高が進んでしまった為、私が返金した際はNZDから日本円なので20%程度の為替差損が発生してしまい、結構、その時の出費は痛かったですが、それよりも両親がお金を貸してくれたから永住権が取れたので感謝しかありません。


参考にまで:私は25ポイントで申請。ギリギリの24ポイントより、より優先的に永住権が授与されやすいと思ったからです。

追記になりますが、NZの永住権を取るには一般的に次の3パターンが考えられます。

①家族カテゴリー:
例/永住権や市民権所持者と結婚や2年以上の同棲しよる事実婚(De fact)

②投資家カテゴリー:
300万NZドル(約2億3千万円~2億4千万円)を4年間継続して投資できる事等

③一般カテゴリー:
NZが必要としている技術・経験・時給条件・英語力などが必要。

となります。

ご参考にまでNZ移民局のビザ申請に関する内容が書かれているURLを貼り付けましたので興味のある方は参考にして下さい。
https://www.immigration.govt.nz/new…/apply-for-a-visa

さてさて、かなり話が飛び飛びになってしまいゴメンナサイ。話をイギリス時代に戻します。

1996年7月~8月:47日間17ヵ国訪問のコンチキツアー(詳しく知りたい方はネット検索して下さい)に参加。東西ヨーロッパ諸国とエジプト周遊。

同じく96年秋にアイスランド旅行、初めてオーロラを見る。

97年のイースターホリデイ中、ケニアとタンザニアへ。アフリカ最高峰のキリマンジェロ登山

98年夏、フランス・トウールースでサッカーW杯の日本対アルゼンチン戦を観戦

とイギリス留学中にはたくさん海外旅行をしました。

そして、1999年に日本に帰国。

ヴァージンアトランティック航空とKLMオランダ航空の日本人客室乗務員募集に応募して1次面接で敗退。(応募数5,000人で採用数は20~30人の狭き門)

7月にNZの永住権を香港のNZ大使館に申請し、2週間で申請が許可される。

9月にNZへ移住。

ダメ元でナショナルフラッグ・エアラインのフライトアテンダント募集に応募し、採用される。


5週間の客室乗務員トレーニングは私を含めて12名。

日本人は私だけ。

私以外は皆、英語が母国語の同期だったけど彼らの助けを得ながら、何とか無事に5週間のトレーニングを卒業し11月から正式に国際線の客室乗務員になりました。

ここに至るまで、数々の試練がありましたが、一つの大きな目標を達成できた時は「人生で一番嬉しかった瞬間でした。」

1999年10月同期CAと卒業式(トレーニングのプレッシャーは凄かったです。)

1999年10月同期CAと卒業式
(トレーニングのプレッシャーは凄かったです。)

12月4日(日)無料オンラインイベント「世界の教育を知ろう」

世界各国の日本人で集まり、「教育」について自由に意見交換するオンライン雑談会を開催します

詳細は「せかいじゅうサロン(無料)」でご案内しています

ニュージーランドについて思う事


移民が多い国なので、外国人にも優しいと感じます。

私の場合、どうしてもニュージーランドに移住したいというより、「どうしても国際線の客室乗務員になって世界中を旅して周りたい」と言う目的を果たす為に選んだ国がたまたまニュージーランドだったので、もの凄い思い入れはありませんでした。

ですが、2度のニュージーランド移住で合計10年近く住んでいる第二の故郷のような存在です。

ニュージーランドは手つかずの美しい自然が多く残っていて、田舎育ちの私にはとてもあっている場所だと感じています。

今年の1月に中学生の娘達と妻と4人で星空が有名なテカポに泊まり、世界遺産の星空を満喫。

それからマウントクックを半日トレッキング。どちらもその場所に行くには交通費はかかりますが、それ以外の費用は無料のアクティビティです。

こんなに美しい風景に無料で触れられるのもニュージーランドの魅力かと思います。

それに加えて美味しいワインとチーズ、アイスクリーム、シーフードが食べられるのもこの国の良い所ですね。

NZのカウリで最も高い木(樹齢2000~2500年)※タネマフタ「森の神」と言います。

NZのカウリで最も高い木(樹齢2000~2500年)
※タネマフタ「森の神」と言います。

最後にもう一つ、この国に住んで良いなと思うのが、長期間の有給休暇を普通に取得できる事です。

法律で1年以上働くと4週間の有給休暇が与えられる事が定まっており、きちんと、それを消化することができます。

ちなみに私がいた航空会社では、ラッキーな事に毎年6週間の有給休暇がもらえました。

普通6週間も有給休暇があっても使いきれないと思うかもしれませんが、会社側が上手に有休休暇を取る人数を調整してくれて、①2週間ずつに3回に分けて取る人。②3週間ずつに2回に分けて取る人。③6週間まとめて取る人と振り分けをしてくれたので、有給休暇中は様々な国を旅行して周りました。

2度目のニュージーランド


34歳の時に約7年間住んだニュージーランドを離れ日本に帰国。

その後も米国・ロサンジェルスに1年、インドネシアのジャカルタに1年と日本以外の国に住んで来たのですが、47歳になって再びニュージーランドへ。


ニュージーランドの永住権は1度取得してしまえば基本的にその権利を持ち続ける事が可能でしたので子供達の教育の為に移住をすることに決めました。

13年ぶりに戻って来たオークランドはかなり物価が上がっていてびっくりしました。

日本は1990年代初頭にバブル崩壊があって、その後、失われた20年とか30年と呼ばれ物価がほとんど上昇しないデフレ状況が続いていたので、それと対比するとニュージーランドは住宅価格を筆頭に物価がものすごく上がっていました。

理由は様々ですが、積極的に移民を受け入れて来たことで人口が大きく増加、その影響で住宅の需給バランスは常に需要が大きく、私が2006年まで住んでいた家は4~5倍の値段にまで値上がりしていて、さすがに上がりすぎでは?と心配になります。


妻とは2000年から2006年まで6年間一緒に住んだオークランドでしたが、双子の娘達にとっては初めて暮らす海外生活。

ちなみに、妻と子供たちは2020年8月から合流となりました。

日本では小学6年生の夏休みからNZに移り、そのまま現地のIntermediate School(中学校)へ編入します。

登校初日は二人とも緊張と不安で自宅を出る前に涙を流しましたが、学校から帰ってくると、とても楽しかったと笑顔で話していてスゴク安心しました。

子供達には現地校に入る事前準備として、オンライン英会話を週3回×25分を8か月受講させました。

その効果は長女に言わせると「小学校で勉強する英語だけでは、実際にネイテイブスピーカーと会話する力は身につかず、フィリピン人の先生とマンツーマンで会話練習をすることで、英会話の自信がついて非常に役にたった。」と言うことで、もし、お子様と一緒に移住を考えている場合にはお勧めかと思います。

これから挑戦したい事


バイクで北海道、九州、ニュージーランド、オーストラリアを周遊したいです。

体力と経済力があればアメリカ西海岸から東海岸まで横断したいですね。

昭和生まれの方なら覚えているかと思いますが日本テレビで放送していた「アメリカ横断ウルトラクイズ」が好きでしたので。

バイクと合わせて、トレッキングや山登りもしたいと思っています。

幸いニュージーランドには素晴らしいトレッキングコースが数多く存在していますから。

それと家族には反対されていますが、60歳ぐらいでエベレストに登れたら最高なんですが、これはちょっと難しいかな?

登頂は無理でも、途中までトレッキングぐらいは実現出来たら嬉しいです。

最後に、海外移住をしたいけど中々、一歩を踏み出せない方へのメッセージです。


世界にはたくさん面白いモノがあるから、さっさと決断して旅に出なさい。



先ずは、今までよりも大きく一歩を踏み込む勇気を持ってください。

英語でFear「恐れ、不安、心配」と言う単語がありますが、このFearの頭文字を使って

F: False
E: Evidence
A: Appearing
R: Real

と書き換えると「本物のように見える誤った証拠」と言い換える事が出来ます。


つまり、あなたが抱いている不安の正体は、単なる思い込み。


本当は想像したような悪い事は起こらないのに思い込みが強すぎて、それが誤った証拠であっても、現実に起こってしまうのでないか?と過剰に心配してしまう。

だから、「自分には未だ十分な能力がない」とか、「もう年齢的に無理だから」とか、本物のように見える嘘の証拠を作り出して逃げたり、避けたりする理由を作ってしまっているだけなんですよ。


とても上から目線で偉そうな事を書いてしまいゴメンナサイ。

ですが、もし、このメッセージがあなたにとって一歩前に踏み込む勇気を作り出す事が出来たなら本当に嬉しいです。


何か質問がありましたら、気軽にコメントして下さい。


感謝

NZの国鳥・キウイの模型(NZ人は自分たちの事をKIWIと呼んで親しみを込めています。)

NZの国鳥・キウイの模型
(NZ人は自分たちの事をKIWIと呼んで親しみを込めています。)

 

NZ北島の土ボタル(とても幻想的で、時間が経つのを忘れてしまいますよ。)

NZ北島の土ボタル
(とても幻想的で、時間が経つのを忘れてしまいますよ。)

追伸
12歳の時、ドラマ【スチュワーデス物語】に登場する教官にあこがれて、ただスチュワーデスにモテたかったから、スチュワードを目指す男の物語「スチュワード物語」を書きました(Note)。

また最近全然アップロードしていませんがYouTubeもやっています。ぜひご覧になってみてください。

中村さん執筆「スチュワード物語」はこちら
中村さんのYouTubeチャンネルはこちら

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