バングラデシュの生活

※この記事はせかいじゅうサロンの「移住メモリー」企画で、紹介された内容です。

せかいじゅうサロンの皆さん、こんにちは。りあんです。

移住メモリーの投稿第一弾ということで、この場をお借りして私がバングラデシュで生活していた当時のことをご紹介させていただきます。

サロンの皆様にとって何かのきっかけになれば幸いです。

最初は嫌で仕方なかった海外移住

私たち一家4人は2010年9月から2011年2月までの半年間、夫の仕事の関係でバングラデシュの首都ダッカに滞在しました。

当時上の娘は小学3年、下の息子は幼稚園の年中さんで、しかも娘は喘息発作の持病を持ち、息子は乳アレルギーでアナフィラキシーを起こすという、日本にいても健康面でまったく気の抜けない子育てをしていました。

たった半年だし、夫だけでバングラに行ってほしいと懇願したのですが(私も悩みすぎてパニック発作を起こすようになっていました)、夫のほうはかたくなで、絶対に子供たちにいい影響があると、2年越しで説得されての渡航でした。


結局は夫の言うことが正しかったのです。

半年という期間の短さもよかったのかもしれませんが、娘のほうは特に、喘息発作も出ずにのびのびと過ごした印象でした。

後述しますが、娘も息子もダッカ日本人学校(息子は付設幼稚園)にお世話になり、短期間に様々な行事、習い事にチャレンジしました。
(Amazon電子書籍にて当時の日本人学校の校長先生の角保宏先生の著書『ダッカ日本人学校 校長の志と使命海外で学ぶ子供たちの輝かしい未来』に詳しいです)

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現地の日本人コミュニティ

当時の日本人学校の生徒の皆さんのほとんどが外交官やJICA、国際機関の子弟でルーツも国際色豊かでした。

ちょうど私たちは野外活動の容易な乾季に滞在したので、夏祭り、お化け屋敷、日本式の運動会、餅つき大会、よさこい、柔道など日本風の文化行事に参加できたほか、英語でミュージカルをしたり、バングラデシュならではの仕事体験、また、仕事をしている人にインタビューしたり、クッキー工場見学やバングラデシュの陶芸や染色体験をしたり、現地を肌で知る体験をさせいただき、子供達にとって良い体験、良い栄養となりました。

娘は今大学生になりましたが、将来的には国際的貢献ができる職業を選択したいと、ただいま語学に励んでいます。

親である私たちも日本人学校の行事に参加し、行事や授業のお手伝いを通して在バングラデシュの日本人の方々(多くは日本人会の方々)との交流を深めることができました。

不便な生活の中にあるので助け合いの空気がありコミュニティはあたたかく感じました。

そして自分のできるスキルで協力する、という空気もありました。


私は高校の教員免許があったので、一日だけ社会科の特別授業を担当したこともあります。

またコーラス部にも所属し、日本人学校をお借りしての練習に毎日のように参加していました。

このような行事参加に親も子もどんなに救われていたかしれません。

日本人学校でのれんが割り体験の様子
バングラデシュではレンガは人力でたたいてリサイクルする
多くは幼い子供を連れた女性や子供がレンガの山の中で作業をする粉塵が飛ぶので口を覆わねばならない

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バングラデシュの生活環境

バングラデシュは娯楽が日本に比べて少なく、子供が勝手に外に出て遊びに行くとか、考えられません。

子供が遊べるような安全な公園もありません。

放課後に遊びに行くとしたら、親同士が連絡を取り合って、お互いの家を訪問して室内で遊びます。

しかも車で行きます。

その車は自分で運転するのではないのです。

必ずドライバーを雇って、ドライバーが運転します。(5キロ先に行くのに当時は2時間かかりました。渋滞が激しいからです。)

日本人の住んでいる地区は限られていたのでお友達のうちに遊びに行くのは車で15分ほどのところが多かったと記憶しています。

ちなみに日本人学校の通学には朝バスが各フラットに迎えに来てくれていました。そして、毎日お弁当を持たせていました。

ほかのご家庭はそれぞれの事情に応じ、ベアラ(お手伝いさん)やコック(なぜか男性が多い)をそれぞれ雇っていました。

日本では考えられないと思いますが、現地の人を雇うのが外国人の義務のようなところがあり、またたびたび停電するので、電化製品は当てにならず、人力がどうしても必要なのです。(私たちはドライバーのみ雇っていましたが)

今はあまりなくなったかもしれませんが当時はホッタール(ハルタル)という政治的なストライキが頻発して、そのたびに社会全体の機能が止まり学校も職場もストップ。

コロナによるロックダウンみたいなことが日常でした。うちに閉じこもることも多かったので、DVDやゲームなどをたくさん日本から持ち込んでいました。

バングラデシュの言語

病院は大きな病院もあり、英語が通じます。

逆にお医者様から日本人はもっと英語を勉強するべきだ、と諭されました。

それくらいバングラ社会には英語が浸透しており、どの階層の人も話せます。

しかし、話し言葉として英語が浸透していますが、読み書きがうまくできる人は限られます。(この辺りは日本と全く逆ですね)

バングラデシュは1952年のパキスタンの支配から自国言語バングラ(ベンガル語)を守る運動、ベンガル語国語化運動に起因して、1971年にバングラデシュとして独立を果たしています。

そのことからベンガル語にプライドを持っていて、公用語はベンガル語で公文書もベンガル語ですが、実社会では英語が浸透しています。あくまで私見ですが、バングラ人は自分たちをアジア人というよりは西洋寄りの人間と思っている節があります。

インドやパキスタンから独立を勝ち取ってきた経緯からとイギリス連邦の一部であるというプライドからくるものと分析しています。

日本人に優しいバングラ人

当時はグルシャンという外国人の多い居住地区に住んでいました。

グルシャン池があり、公園(子供を遊ばせるというところではなく、美観地区?のような)もあり、静かでいいところだったのですが、同じ地区にあったイタリアンレストランで2016年にテロがあり多くの日本人の犠牲者を出したのは大変なショックでした。

グルシャン池

これは、バングラ人にとってもショックな出来事だったと思います。多くのバングラ人は無条件に日本人が好きで、日本をリスペクトしてくれているからです。

原爆のこともよく知っていますし、日本の戦後の復興についても知識があります。

バングラ人は口を開けば日本や日本人について賞賛してくれます。(10年前の話ですが)

イスラム教が大半の国民ですので、文化や考え方の違いは多少ありますが、妙に日本人的なシャイなところもあったり、ロマンチストで情緒的なところなど共感できる部分はたくさんあります。

毎朝テレビではバングラ民謡と番組が放映されますし、街では詩を朗読するステージが開催されています。

コルバニイード(犠牲祭のための牛が路上で待機していた

バングラデシュで困ること

衛生面やインフラ面は劣悪です。公衆トイレなど街中には皆無です。

そもそも女性が長時間出かけるということ自体あまりないのかもしれませんし、我慢する習慣がついているのかもしれません。

このトイレに関してはいったん家を出たらいつ次用を足せるかわからないという恐怖を感じ、本当に困りました。(緊張しないように長時間のドライブ時には日本から持ち込んだ安定剤を飲んでいました)

バングラデシュの好きなところ

一方でダッカから出て田舎に行くと私の幼いころに見ていた田園風景が広がり、懐かしい気持ちになったものです。とある村を訪問した際には村中の子供、大人たちが日本人を一目見ようと集まってきて、取り囲まれてしまいました。

幸いなことに私たち一家はバングラデシュ人の知り合いが多く、半年の滞在期間の間現地のご家庭に招かれることが多くありました。

そこで市井のバングラデシュ人のもてなしの心、底抜けのフレンドリーさに触れ、人と人というのは、文化や宗教の違いを超えてつながることができることを身をもって知ることができました。

私の個人的な感慨ではありますが、日本はあまりにもスムーズで便利でシステマティックな社会なので何かミスをしたり、アクシデントが起きると自己責任となるかまたは犯人探しが始まります。

なので普段からミスのないように、失敗しないように、という思考回路で行動します。

ですがバングラではどうにもならないこと、ままならないことが多すぎるので自分がしっかりしていなくては、人に後ろ指をさされる、というような、そのような緊張はなくなりました。

私や子供たちにとってはそのような社会や人のおおらかさが良い作用を及ぼしたと感じています。(今わかったのですが、私はバングラ人の寛容なところがすきなのです)

チャドカン(路上喫茶店)
当時チャー(紅茶)1杯4タカ

路上の果物屋さんにインタビュー
自分に仕事があること、仕事ができていることに感謝していたのが印象的

現在の話

私はというとバングラデシュにあんなに行くのが怖かったのに、半年たって帰るころには「日本に帰りたくない」気持ちになり、実際日本に帰国した後に逆ホームシックになってしまいました。

なんとかバングラデシュとつながっていたいという気持ちから小学校のボランティアの活動に参加したり、夫の出張に同行したりと現地を訪れる機会をなにかと作りました。

今でも何かしらバングラデシュにかかわりたいと考えているのですがどのようにしてかかわればよいか、糸口が見つけられないでいます。

衛生的、環境的には劣悪で、日本と比べたら何もかもが改善の余地があるように見えるバングラデシュですが、エネルギッシュで人懐こく、人とのかかわりを大切にするバングラ人は、すべて整えられ便利になった社会で生きる日本人が忘れてしまったものを思い出させてくれます。

何か自分にできることがあればしたいなあ、また現地に赴くチャンスがあればなあと夢想しています。

よろしければお気軽にコメントください。

ダッカ大学構内のカーゾンホール 
1905年インド総督ショージ=カーゾンによって建造された
当時公会堂として建てられたが、現在は教室として使われている
バングラデシュの建物はレンガでできているものが多い

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